マルティン・ルター(1483〜1546)

 Martin Luther

 

 ドイツの宗教改革者、牧師、説教者、神学者。農民の出で、炭鉱で働いて溶鉱炉経営者となった父ハンスの期待を受けてドイツのエルフルト大学で法律を学ぶ。22歳の時に、シュトッテルンハイムの付近で落雷に遭い、その恐怖の中で誓いを立てて修道士になるためにアウグスティヌス修道院に入る。神学を学んで、29歳で神学博士となり、ヴィッテンベルグ大学の聖書教授となる。

パウロの福音に深く動かされ、例えば、ローマ書1章17節の「福音には、神の義が啓示されている」と言う言葉に接し、そこから神の義は私たちが獲得するものでなく、神の深い憐れみにより、一方的に与えられるものであり、義とされた私たちが恵みによって生きていくというキリスト教信仰を見出した。

この信仰の基本姿勢により、当時のローマ・カトリック教会の慣習と神学に対して批判を強め、1517年10月31日の「95箇条の提題」を発表し、ローマ・カトリック教会の審問を受け、ついて教会より破門され、神聖ローマ帝国からは帝国追放刑を宣告された。それでも、ドイツのザクセン選帝侯の保護を受け、ワルトブルク城にかくまわれた。その10週間ほどで新約聖書をドイツ語に訳し、1534年には旧約聖書全体の翻訳も完成させ、ドイツの民衆の間に聖書を普及させたばかりでなく、各地の方言に分かれていたドイツ語の統一に大きな貢献をした。

 ローマ・カトリック教会と帝国による攻撃と迫害にもかかわらず、ルターが投げかけた宗教改革の精神は、ドイツ各地だけでなく、北欧の国に広まっていった。ルターは、宗教改革を指導するだけでなく、大学での聖書講義と膨大な著作活動と出版を63歳の生涯にわたって続けた。

マルチィン・ルター(1483〜1546)の年譜

 Martin Luther

1483年11月10日  ドイツのアイスレーベン(Eisleben)に生まれる。

     11月11日  聖マルチンの日、その聖人の名前をもらって洗礼を
                     受ける。

1484年        家族と共にマンスフェルト(Mansfeld)に移る。

1488年〜96年    マンスフェルトで学校に通う。

1497年        マルデンブルク(Magdeburg)の司教座聖堂付属学校に通学する。

1498年〜1501年  アイゼナハ(Eisenach)の男子学校に通学する。

1501年〜1505年  エルフルト(Erfurt)大学で哲学を専攻し、修士を取得。

1505年5月      エルフルト大学の法学部に進学する。

     7月2日    シュトッテルンハイム付近で落雷に遭い、修道士になること を神に誓う

     7月17日   エルフルト市内の聖アウグスチヌス修道士会に入る。

1507年        エルフルトの大聖堂において司祭に叙階される。

1508年        ヴィッテンベルク(Wettenberg)のアウグスチヌス修
                     道院に移る。神学の勉強を継続しつつ、大学で哲学を教える。

1509年        エルフルト市内のアウグスチヌス修道院に戻る。

1510年〜1511年  アウグスチヌス修道院の要請でローマへ旅行する。

1512年        神学博士の学位を受ける。恩師シュタウピッツの後任とし
             てヴィッテンベルク大学神学部教授となる。                  

1514年        ヴィッテンベルクの町の教会の牧師に任命される。

1515年〜1518年  複数のアウグスチヌス修道院の監督の責任を持つ。
1517年        免罪符についての「95箇条の提題」を発表。
             ヴィッテンベルクの城教会の扉に貼り付ける。


1518年        ハイデルベルク討論。アウグスブルクでカエタン司教による審問。
             ライプチヒ討論。             


1520年        宗教改革三大文書
(「ドイツのキリスト者貴族に与える書」
             「教会のバビロン捕囚」「キリスト者の自由」
)が焼かれ。           

1521年        正式に破門状が発せられ。ヴォルムス(Worms)国会でルターは
             所説の撤回を拒否、ヴォルムス勅令発布、帝国追放の刑に処せられる。        


1521年〜1522年  ワルトブルク(Wartburg)城に保護される。ドイツ語訳新約聖書刊行(9月)

1522年        ヴィッテンベルクに戻る。八つの連続説教を行う。

1524年〜1525年  農民戦争勃発

1525年        カタリーナ・ウォン・ボラ(Katharina von Bora)と結婚。

1529年        シュパイアー(Speyer)の帝国議会。

1526年より      視察旅行、教会制度の再編成。

1529年        第2回シュパイアー(Speyer)の帝国議会。
             アウグスブルク信仰告白が帝国議会で宣言される。


1534年        ルターのドイツ語訳聖書完成(新約、旧約を含む)、刊行。

1546年2月15日   アイスレーベンでの最後の説教。
 
          18日   アイスレーベンで死去。

       22日   ヴィッテンベルクの城教会に埋葬される。