カタリーナ・ウォン・ボラ(1499〜1552)

 Katharina von Bora

 

「カタリーナ・ウォン・ボラ」は1515年に、ニムシェン修道院でシトー会修道女となった。けれども、ルターの宗教改革に影響を受け、1523年の復活日の前日、他の8人(または11人)の修道女とひそかに修道院を脱出した。ルターもこの脱出計画に関わっており、その計画を支持したルターは、1523年6月13日、カタリーナと結婚する。

 彼女はザクセンの没落貴族の家に生まれたが、幼くして両親と死別し、4歳頃から修道院での生活に入り、そこでの教育を受けた。15歳のときに正規の修道女となり、他の修道女と共に修道院を脱出した時には、彼女は23歳になっていた。

 ルターの宗教改革が実現した裏には、妻カタリーナの大きな働きがあったことを忘れてはならない。ルターは、愛をこめて妻を「私の主人ケーテ」と呼んでいる。2人の結婚生活は、ヴィッテンベルクの旧アウグスティヌス修道院で始まった。ルターの家には、いつでも親戚の子どもたちや学生、客人などが20人から30人いたと言われている。その世話を一手にカタリーナは引きうけ、早朝から働き、市の人々からは「ヴィッテンベルクの暁の明星」と呼ばれていた。2人の間には、3人の男の子(ハンス、マルティン、パウル)と3人の女の子(エリーザベト、マグダレーナ、マルガレータ)が生まれたが、エリーザベトは生まれて1年後にペストに罹り、マグダレーナは14歳で死んでいる。2人の子どもの死はカタリーナにとって大きな悲しみとなった。

 ルターの宗教改革を大きく支えつつ、家事のすべてをまかなったカタリーナはルターの死を見届けた6年後、1552年、53歳で死んだ。