P・ハイランド宣教師

 Rev. Philip  Hyland 
        ハイランド牧師            ハイランド夫人 
          P・ハイランド                ハイランド夫人
                 
                                          
 P・ハイランドはアメリカのアイオワ州ホレスト・シテイ(Forest City)にあるワルドルフ短期大学(Waldorf Junior College)とミネソタ州ノースフィールド(Northfield)にあるセント・オラフ(St.Olaf College)で教育学を学んだ。
 その後、ルーテル神学校(Luther Theological Seminary)を卒業し、四年半の間、サウスダコタ州のピーバー(Peever)で牧師に就き、ニュージャージー州にあるプリンストン神学校で一年間学んだ。
さらに、彼は中国への宣教師になる準備ために、カリフォルニア州バークレーにあるカリフォルニア大学に入った。
こうして、1947年から、中国伝道の宣教師となるための準備に取り組んでいたが、中国の共産化により、失望の内に中国伝道への夢を断念する。1949年からサウスダコタ州モーブリッジ(Mobridge)にあるTrinity Lutheran Churchの招聘を受け入れ、約2年間の牧会生活を経て、ELCの新たな伝道地となった日本への期待と憧憬に胸を躍らせながらボードの招聘に応じた。
 朝鮮戦争が勃発して約2ケ月後の夏、アメリカのノルウェー人系のルーテル教会であるELC(Evangelical Lutheran Church)より派遣された。1950年8月17日、家族も含めての11名の宣教師第2陣と共に太平洋航路の客船にサンフランシスコから乗船し、日本に向かった。
 「SS Jeff  Davis」号の船客となったのは、P・ハイランドとその家族(妻ジュディ、4歳長女フィリスと3歳の子女ロイス)、O・G・タングとその家族(妻クレオ、2歳の子息)、K・ステンバーグ、婦人宣教師A・M・ミッチェル、婦人宣教師D・オフスダル、婦人宣教師L・ピーダーセンの11人であった。
 東京での一年間の日本語研修を経て、1951年11月より、静岡市音羽町に建てられた宣教師館に移住した。1952年3月には、音羽町に最初のルーテル教会の会堂を建築した。それから2年後の1954年には、静岡市の古庄に新たに開校した「東海ルーテル聖書学院」の初代院長となり、16年間、学院の発展のために尽くした。