月報付録 2007年12月2日発行   

  「東海教区・静岡教会前史」

   ELC宣教師の軌跡(48)

「仮教会々議と伊勢湾台風

 

前稿は、一九五八年五月三日から五日にかけて第三回信徒大会が静岡の聖書学院で開かれたことに触れた。この第三回は第一回及び第二回と違い、信徒の中から準備委員を選任し、計画と運営の責任を全面的に任せた信徒大会となった。

 この三日間にわたる信徒大会で、自主教会計画委員会の委員長となったO・ハンセンは、「仮教会々議」の構想を次のように述べ、この会議が日本福音ルーテル教会との合同を果すことを想定した期間の間、暫定的に教会行政の責任を担うことを説明した。

 「福音ルーテル教会日本伝道部は、日本におけるその活動の当初から、東海地方に独立のルーテル教会を立てることを目的として来ました。・・・・本年一月組織された「仮教会々議」において、同地方の教会発展のため、諸種の権限と責任をうつすことについて大きな前進がなされました。この「仮教会々議」は四名の日本人牧師、二名の信徒、四名の宣教師を以て構成されます。この委員会の活動は東海ルーテル教会が結成されるまで続けられます。その任務の一つは東海ルーテル教会結成のための発起人となることです。・・・・私たちの任務は教会の組織をどのようなものにするかを決定することではなく、むしろそれは東海地方の各個教会のなすべきことであります。・・・・この秋には全教会においてこれが開始されんことを希望するものであります。・・・・この委員会は恒久的なものではありません。東海ルーテル教会が結成されるまで、同地方の教会の諸般のことを扱うものであります」

 と、同時に、この信徒大会では西恵三(信徒)による合同の経過報告である。合同の経過の一部を第二章第五節でのべたが、西はこの合同委員会が「教理的立証」と「組織に関する提案」という二つの面から互いに承認し合えるようなものを書き上げることに成功したこと、そこでこれら諸団体がそれぞれ充分満足するような憲法、規則の草案作成に従事することになり、「憲法委員会」の名で、昨年来、すでに何度も会合して来ていること、ELCからは委員として宣教師二名(ハンセン、ハイランド)日本人教師二名(河島)信徒二名(西)がこれに参加していることを告げ、東海ルーテル教会の結成が急務であることを次のように報告した。

 「合同が実現して日本の各地方にある諸団体相互の連絡が円滑に行なわれ、日本全体にわたってルーテル教会の活動がいよいよ盛んになって行くことを心から希望するものであるが、これによって生ずる責任、即ち教師の養成機関である神学校への協力、社会福祉事業、文書活動、ラジオ伝道、教会学校教案その他多くの責任を負うことを通して、一致協力して主に仕える信仰を深めたいものである。」

 その年の秋、十一月には、ハンセン、河島、大柴、中島の三人に信徒から阿部(岡崎)、矢島(湯河原)の二人が加わり、憲法委員会が始動し、その月の下旬にはハンセン、河島、阿部の三人が小委員として憲法草案の作成に着手した。

十一月三〇日、第一回憲法草案委員会が静岡教会で開かれた。草案の検討と各教会への配布をも協議し、次回委員会を翌年の、一九五九年一月一五日に予定した。

一月一〇日、各委員は、小委員が作成した憲法草案を受け取った。一月一五日、憲法委員会は草案を検討し、これを憲法の成案としていくことを確認し、各教会に次のように通知していくこととした。

「昨年秋冬地域にわかれて東海福音ルーテル教会組織の準備会を開いて頂いた折の決定に基づき、選ばれた委員会は昨年十二月十五日の小委員会並びに本年一月十五日の委員全体会議を経て、ここに一つの憲法草案を作成しましたので、皆様にお届けします。兄弟姉妹におかれては地域会議前に検討され、各自教会の代表を通じて地域会議に意見をおよせ下さい」

この通知文書に沿って、以下の教会で憲法草案を説明する地域会議が二月二二日の主日礼拝後に開かれた。

東京地域 本郷学生センター

東部地域 沼津教会

中部地域 島田教会

西部地域 岡崎教会

その後、委員会は三月三一日に各教会から送られてきた報告書を検討した上で、憲法規則の最終案を書き上げ、この秋に予定されている教会組織の準備会に提示することにした。

ここで、この時期の聖書学院の動きに目を転じると、聖書学院の開校以来、聖書教師として学生指導の任に当って来た吉田希夫が一九五八年の秋に退職した。そのために、しばらく欠員になっていた後任の教員として岸井敏を迎えた。彼は教職按手を受ける前の、一九五五年より岡崎教会に赴任しており、当分の間、岡崎教会の牧師を兼ねていた。だが、一九五九年春に聖書学院の専任教員としての任命を受け、五月三日に晴れの就任式があげられ、家族と共に住居も構内に移した。

なお、開校の年の一九五四年から一九五九年までの五年間に、九十二人の学生が一年制の過程に在籍して学んだ。その中には、将来は教師職を目指した者も含まれている。

その頃、聖書学院では地域社会とのつながりを考えると共に、学院生の教育訓練の場としても、幼稚園事業の計画を、幼稚会の設立を計画した。

一九六〇年五月、宣教師館用の土地、二三五坪を聖書学院の隣接地に1,872,000円で買い入れた。

「静岡ひかり幼稚会園舎」は九月十二日に落成、献堂式を行った。

その月の二十六日、台風第十五号が紀伊半島に上陸し、東海地方を中心に近畿から東海の広範囲で大きな被害を及ぼした。伊勢湾台風である。死者・行方不明者は5,098人、負傷者39,000人にのぼり、明治以来最大の被害を出した。 

教会で最も大きな損害を受けたのは、名古屋市の柴田教会である。仮会堂であったとはいえ、天井にとどく程の浸水で見るも無惨な姿になってしまった。会員方の被害も大きく、家を流されてしまい、やっと形を止めているだけの仮会堂に身をよせて、一時をしのいでいる会員の家族方々もいた。 

この伊勢湾台風の被害に対して、アメリカの「福音ルーテル教会」(ELC)の海外伝道局から救援支援金が送られてきた。

同じ災害地の名古屋にある日本福音ルーテル教会の名古屋教会及び復活教会の会堂は無事であったが、約二十数名が名古屋教会の会堂に避難し、そこでしばらくの間、生活をした。

全国の教会からは救援物資が名古屋のルーテル教会に送られ、神学生も十月三日から救援活動に駆付け、近隣の被災者に物資を配給するなどした。

この時の救援活動の模様を河島亀三郎は、『東海教区二十年史』で次のように語っている。

「こうした時、ELC外国伝道局からいち早く災害救援活動が日本伝道部に送られてきた。たゞちにハイランドが委員長に指名され、援助方法を協議した結果、一回限りの贈与としてしまうより、めいめいの力で立ち上ってもらうことを期待し、復興資金を貸すという行き方が望ましいこと、また次に起るかもしれない災害にそなえて、資金を用意しておくのがよいと、いうことになり河島と二人が現地を訪れ、会員諸氏に集まってもらい、趣旨を説明しめいめいの復興計画と要望に応じて資金を貸した。会員諸氏もこの趣旨に賛成し、数年の間に返済の事も完了した。」

さらに、被害から三ヶ月を経た、十一月、当時の日本福音ルーテル教会の機関紙『るうてる』は、「伊勢湾台風に際して〜名古屋地方への救援」という記事を次のような内容で掲載し、救援活動が教会間の協同活動になり、教会合同への備えとなったことを強調している。

「九月二十六日の伊勢湾をおそった第二十五号台風は、莫大な被害を各地に及ぼしたが、各教会も義捐金の募金、物資の発送、青年有志のワーク・キャンプ等、いろいろの手段を通じて被害地への援助をしてきた。現地各教会と活動はもとよりであったが、故郷半田へ台風のあと急いで帰省した学生達が、その惨状をつぶさに報告するや、直ちに行動をおこして、救援活動に従事した神学生の活動は記憶されてよい。

特に被災教会員を三十名も会堂に収容して、食糧はじめ、すべてに困難な状況にあった名古屋の恵教会(ELC)の救援を中心に、十月初め物資や食糧の寄附を東京の関係各教会員に願い、かけずり廻って輸送にあたったのは、時期が早かっただけに大きな業績であった。

更に、十月十三日から十七日までの五日間、本郷学生センターの二名、板橋教会の一名を加え、十三名の神学生が炊事係の小林さんを伴って、名古屋の柴田教会及びその会員宅の復旧作業に奉仕した。

これに続き、現地の要請により更に第二陣の作業隊を関東部会で組織、関東地区諸教会の学生及び本郷学生センターの有志を加えて十一名が一八日より二二日まで現地作業に従事した。この組は、東海聖書学院生十七名と現地で合流、大柴、岸井、宝珠山の三牧師と共に、復旧、清掃作業を継続した。

このワーク・キャンプについて一言すると、今回の災害復旧に際しては、キリスト教団体だけでも関東、関西各地より約三〇団体がこれに参加、現地の中日新聞でも注目の的となった。現地の被災者の立場から考えれば、一、極度の緊張と労働の連続により疲労していた時であったこと、二、労働者住宅が多かったため、被災者としては自宅を後にして働きに出なければならなかったこと、三、労賃の急とう等の理由により、思いがけない救援の手になったのである。またわれわれルーテル教会にとっても、被災地が主に福音ルーテル教会の地域であったため、ワーク・キャンプを通じてお互いのよきまじわりが与えられ、救援活動の全般を通じて、教会一致への具体的な機会となったことも一つの成果であろう。」 

 十月十六日、ボードのシルダル総幹事がアジア諸国の視察として、台湾から日本に到着し、十一月七日まで滞在した。シルダルは十月十九日から二十日の間、沼津「静浦ホテル」で開かれた宣教師会の退修会にも出席した。

 十一月二日と三日、各教会・伝道所の代表が静岡教会に集り、東海福音ルーテル教会設立のための憲法規則草案を承認した。と、同時に、一九六〇年七月の「東海福音ルーテル教会」の組織結成を目指しての準備委員会が発足した。これにより、今までの「仮教会々議」は終息し、代わって準備委員会が必要な準備事務を担うこととなった。

 この会議で、十年前の十一月に最初の宣教師として、羽田の地を踏んだO ・ハンセンは感慨を込めて、「東海丸は今日ここに進水する。自分の力で航海するために今日大海に乗り出したのだ」と挨拶した時、そこに列席した教職と信徒一同は深い感銘を受け、ドヨメキの中から拍手がわき起ったと言われている。

 教会運営の主導権がボード及び宣教師会の下にある「福音ルーテル日本伝道部」から日本人を主体とする教会に移るという画期的な出来事の時を迎えたのであった。

 この会議の後、宣教師グループは、宣教十周年の記念パーティを沼津の浅田屋ホテルで開き、彼らも、心の中にも名状しがたい感動を深く感じていった。

 一九五八年五月に設けられた仮教会々議は、一九五九年十一月十七日に開き、そこで「教会予算の審議及び宣教師総会提出議題の審議を主として行うため、仮教会々議は本年末まで存続することとし、一九六〇年一月一日以降は東海福音ルーテル教会準備委員会がこれを受けつぐこととする」との決議をした。

その最終会議は十二月八日に開催し、「本回をもって仮教会々議は発展的解消をとげ、来年度より準備要員会が発足する」ことを確認して、仮教会々議はこうして終息した。