月報付録 2007年11月4日発行   

   「東海教区・静岡教会前史」

   ELC宣教師の軌跡(47)

  「教会自主方策会議と信徒大会」

本稿から、一九六〇年七月に設立した「東海福音ルーテル教会」の設立にいたる過程を記述してみたい。

 一九五五年七月四日から八日にかけて開催された夏季宣教師会において、「自主教会方策委員会」が以下の決議内容をもつて設置された。

 「自主教会方策委員会を四名の宣教師及び四名の日本人信徒をもって構成する。委員会は次の年次総会までに、我々の教会をして自伝、自治、自給する教会となさしめるための計画プランを策定することとする。」

 この委員会のメンバーには、宣教師として、ギルバートソン、イングスルード、デヒットソン、ジョンスルードの四人が入り、委員長にギルバートソンが選出された。これに日本人信徒は恵教会(原栄)、静岡教会(岩崎浩晴)、東京教会(染谷熊冶)、浜松教会(中島誠)の四名が加わった。

 この自主教会方策委員会の設置には、ELCのホードによる自給方針が反映されていた。一九五五年のELCのボードの「年次報告」ではボードの規定が定められ、その「第六項第5条」では、世界各地に創設された教会に対する自給方針がこのように謳われている。

 「宣教師は教会の早期の創設、ルーテル教会の信仰告白とその実施に従っての恵みの手段を規則正しく執行すること、及び現地牧師の養育を通して、それぞれのミッション・フィールドに建てられている教会が自治、自給、自伝を推進することに努力を傾けることとする。」(Annual Repots,1955,ELC,Japan Missio,p.93

  日本伝道に対するボードの伝道方針の中心は明らかに「自給したルーテル教会を日本で確立することを目指す」というものである。他者に依存することのない日本における自足した教会である。その自足は経済的な現象だけでなく、教会論的に従った自主・自立の相応しい教会のあり方を意味する。だが、目の前の現実問題として大きく横たわっていたのは相応しい適正規模の教会を早期に形成することにあった。

 顧みるとアメリカのルター派教会が最初にインドに宣教師を派遣した一八四二年から第二次大戦までの期間は、通称、「宣教師の時代」と呼ばれる。この時代のミッションは、西洋キリスト教を知らない人々にキリスト教的文化、道徳、宗教的価値観を教え、洗礼を授け、信者の数を増やすという改宗を目的とした数量的パターンの「一方通行の伝道」であった。神学的にはミッションそのものが課題となったことはなく、ただ単に「どのようにキリスト教を拡張するか」といった事柄に終始していただけであった。また、そのミッションに派遣された宣教師は北アメリカの農業地域で、しかも地方小都市で育ったヨーロッパからの移住者の子供であった。彼らはいずれも優れた人格の持ち主であり、ミッションの務めに服従する精神を備えていた。そのため伝道地において、彼らは偉大なる開拓者であり、日本の教会は宣教師の「白人の肩に乗せられて」いたようなもので、自立した教会形成には至っていなかった(David L.Vikner ,LCA in World  Mission 18421982, ,LCA,1982)。

 歴史を振り返っても、キリスト者が日本人としての考え、生き方、関心事をキリスト教的視点から再検討する余裕を持ちながら、自給・自立を前提とした教会形成を達成するには、日本においてさえも相当の年数が必要とされた。

 新に設置された自主教会方策委員会が最初の取り組みとして、各教会に送った趣意書は次のような文面であった。

 「福音ルーテル教会日本伝道部が日本における伝道を解してから、既に七年の歳月を経過し、その努力は各地に具体的な結果をもたらしたのですが・・・・ここに生まれつつある教会は主の教会であって、日本伝道部のそれではありません・・・・・教会の頭はキリストであり、キリストこそ唯一の権威であるから、教会は元来自主的なものであります・・・・・完全に自主的な教会とはその福音伝道において、また教会の管理と運営に当たって、或いは財政上の責任と権利行使に関して、他に依存する必要をもたない教会という意味であります。」

(「東海教区二十年史」)

 さらに、自給教会の形成のための指針と言えるものを次のように各教会に示した。

 「@教会堂を所有するかどうかは、その

地域のクリスチャンが自ら決定することである。

  A牧師を招くことも自らの意志で行なう。

  B必要経費の収支を管理し、教会運営上の責任をになうための執事を選任する。

  C牧師を招くに当って、教会が当面自給できない場合には、その教会の要請に基づいて、両者協議の上で必要な援助を行なう。

  D中央資金を設定して、会堂建築に必要な融資をする。」

会堂建築も自己資金で賄うことを目標として、不足分は本部からの資金を借り入れて整えるようにとのことである。

 自主教会方策委員会が基本的な自給方針を描いても、それを実行し、実現されていくのは各教会の会衆、つまり信徒の群れである。信徒の自給意志の自覚とそれへの取組みが要となる。

 その自給への取り組みの第一歩は「信徒大会」である。

その「第一回信徒会」は一九五六年五月五、六日の両日静岡の東海ルーテル聖書学院にて開催された。

参加者は男子四十六名、女子四十七名、合計九十三名であった。                                                     

 その二日間の日程を見ると

このようになる。

開会式五日(土)午後一時三十分〜三時

 司会 河島  挨拶 ホマスタッド

 講師 イングルスルード

 主題 各地の教会−キリストの体としてのその性質と機能

討論会 午後三時十五分〜四時三十分

 分団司会者 河島亀三郎

 〃      岸井敏

 〃      大柴俊和

夕食 午後六時

夕拝と親睦会 午後七時

 司会 吉田希夫

寮内祈祷会 午後九時三十分

六日(日)朝食 午前七時三十分

聖書研究会 午前入時三十分

 講師 吉田希夫

 主題 教会−キリストの霊体

 月曜合同礼拝 聖餐式 

静岡教会 午前十時三十分

 司会 ヴィンヂ  説教 ホマスタッド

昼食 午後一時 

報告会 午後二時〜四時」

 このように第一回信徒大会は、各教会間の親睦を図り、自給に向けての取組みを確認したか大会であった。

 こうして、一九五六年は、各個教会の存在を確かめ合い、相互の交わりを協調したとしになった。

その年の十一月には連合青年会である「ルーサー・リーグ」が聖書学院で開かれ、各教会の青年が集まっている。

 さらに、十二月には静岡教会と岡崎教会が教会組織を完了している。

翌年の一九五七年四月二十七から二十九日の三日間、第二回信徒大会が聖書学院で開かれ、この大会で最初の日本人教職となった岸井敏と池田政一が按手礼を受け、二人の新任牧師により聖餐式が執り行われた。これにより日本人教職は最初の河島亀三郎を加えて、三名となった。

同年九月、宣教師と日本人教職との相互理解と宣教への協力態勢を構築していくと共に、ルター派の神学的研鑽を深めていくためにも、蒲郡の竹島ホテルで第一回教職退修会が開かれた。そのブログラム次の通りであった。 

九月九日午後三時開会祈祷会 河島

午後三時半 講演 ハンセン

日本の教会におけるミッションの態度

(後夕食時まで質問、応答)

午後七時 夕の祈祷

司会 大柴 奨励 ギルパートソン

午後七時四〇分 聖書研究 大柴

十日午前八時  朝祷 サノデン

 午前八時半〜九時半

 聖書研究 エステル書

  司会 池田 講師 岸井

午前十時半 討論会

 指導 池田 きよめの問題

午前十一時半

 閉会祈祷 イングスルード

 

一九五八年一月四日から十日にかけて第八回宣教師会の総会が静岡で開催された。

 この総会で、日本福音ルーテル教会との合同を実現していくために「仮教会会議」(Provisional Church Council)を発足することを決定した。その「仮教会会議」の設置の目的を議事録から語らせてみることこのようになっている。

 「日本人と宣教師の合同委員会が必要とされているが、現実にいまだそのような会議が東海ルーテル教会として公に認められていない状況にある。そのために、東海ルーテル教会が設置されるまでの間、『仮教会会議』を発足することとする。この会議は、按手を受けた日本人教職と一年の期間に限って在籍する二人の信徒によって構成する。この信徒は信徒会によって選出された人である。ただし、宣教師会は信徒会までの間、代理者を指名できるものとする。

 宣教師会のメンバーは、議長、副議長、会計、自主教会方策委員会の長がなるものとする。

 仮教会会議の任務は次の通りとし、宣教師会に従属するもとする。

@        宣教の現場に日本人教職と宣教師を任命する。

A        教職の人事に関係する教会からの招聘を扱う。

B        牧師候補者の試験と認定及び任地確定に至る招聘に基く按手のための候補者の試験と認定を行う。

C        東海ルーテル教会を組織化するための主体となる。

D        教会の規律の処理を行う。

E        教会に対するスチュワードシップの奨励を図る。

F        新規の伝道地の確定を行う。

G        日本人会衆からの要望、意見、不満及び課題を受け止める。

各教会と地区からの補助及び支援要請を受け止める。」

 この仮教会会議の構成は宣教師四名、日本人教師四名、信徒二名の合わせて一〇人であった。その名前は次の通りである。

 0・ハンセン()、A・クヌートソン()、G・ギルバートソン、D・スウエンサイド、河島亀三郎、池田政一、 岸井敏、大柴俊和、市山貞一、岩崎浩清

 翌年の一九五八年五月に第三回信徒大会が静岡の聖書学院で開かれた。第一回及び第二回は、自主教会計画委員会が運営・企画の主体であったが、今回からは信徒の中から準備委員を選任し、計画と運営の責任をまかせることになった。東京地区の教会から山口政邦(東京)、西村文太郎(本郷)の二人が選ばれて委員となり、次のような計画の下に二泊三日の日程で開かれた。参集した信徒は、二十一教会

から三十七名の代表が集った。

なお、特筆すべきこととしては、この信徒大会の礼拝で、大柴俊和が按手礼を受け、日本人牧師は合計四名となった。

 

 第一日 五月三日 (土) 聖書学院において

  午前一〇時 開会礼拝 司会 西村  

奨励 池田牧師

  午後一時半

議事 司会 山口

    一、議長選出

    二、諸報告 各委員

    三、議事

    四、諸委員選挙

  午後六時 夕食

  午後七時  議事再会

  午後九時  閉会祈祷

第二日 五月四日 (日)

  午前八時

 聖書研究 吉田

午前一〇時半

 聖日礼拝 静岡教会

   司式 ジョシスルード

   説教 岸井牧師

   (当日の献金は教会に)

   正午 昼食 学院にて

  午後一時 ピクニック

  (静岡教会の斡旋による)

  午後六時 夕食学院にて

  午後七時 夕の聖会 

司会 池田牧師

   講演 イングルスルー

第三日 五月五日(月)

静岡教会にて

   午前一〇時 按手礼

   聖餐式 ジョンスルード

       大柴牧師

 〔当日の献金は信徒会に)