月報付録 2007年9月2日発行   

     「東海教区・静岡教会前史」

   ELC宣教師の軌跡(45)

「豊橋伝道

 

前稿では、日本福音ルーテル教会が一九一六年から約十二年の間続いた戦前の豊橋伝道に触れた。今回は戦後、福音ルーテル日本伝道部(ELC)による豊橋伝道を紹介したい。

 前にも触れたことであるが、一九五一年十一月の、福音ルーテル教会日本伝道部(ELC)による第二回宣教師会総会で第二次宣教拠点の候補地の一つに豊橋が掲げられ、そこへの宣教師人事はD・ヴィンジとC・モスビー(婦人宣教師)と定められた。ただし、その時点は、彼等二人は日本語研修のために東京に在住しており、時間の余裕を見つけて、豊橋伝道への下準備を開始したのである。

D・ヴィンジが最初に取り組んだのは、伝道拠点の確保のための土地の確保である。宣教師会の意向も受けて、彼は翌年の一九五二年春頃、豊橋市内の東地区に適当な教会及び宣教師館用地を見出そうとした。

一九五二年七月の宣教師会の常議員会には豊橋市住吉町一八八に婦人宣教師館用地として、百四十坪の土地を購入するための交渉が進行中であり、その坪単価は2,250円であることが報告されている。

教会用地は私立学校の前の、二四〇坪を最適な候補として検討していた。

残された資料から辿ると、一九五三年四月の常議員会はボードのシルダールの承認も得て、市内の東側である路面電車の終点に近いところに三百坪の宣教師館用地の購入方針を決定した。

付け加えれば、前年の一九五二年八月下旬、夏季宣教師総会において、静岡教会の宣教師であったP・ハイランドが創設された聖書学院の院長に指名された。静岡教会の後任は、豊橋伝道の準備作業に従事していたD・ヴィンジが就くことになった。ただし、彼は一九五三年秋までは教会及び宣教師館の土地の取得作業に継続してかかわった。

翌年の一九五三年一月五日から九日にわたって静岡で開かれた第三回宣教師曾会で、新たに来日した宣教師も含めて、人事異動が以下のように発表された。

 刈谷   P・アーノルド

 横須賀  P・ルティオ

 三ケ日  L・イングスルード

豊橋   R・ネルソン

東京   R・サノデン

     R・ハーブスト

沼津   A・アーネソン

島田   R・ホルティ

富士   M・ブリングル

 ここに示されているように、豊橋伝道の下準備に従事したD・ヴィンジの後任には、新任のR・ネルソンが赴任することになった。

 そのネルソンが豊橋での五年間、典型的な中都市である豊橋での伝道生活を振り返り、次のような言葉を一九六〇年に残している。

 「私は中都市の一つである豊橋市で、五年間働いてきましたが、何にも無い所から始めて、神が一つ一つの業を、祝福してくださるのを見ることができました。これは本当に、すばらしい経験でした。一九五三年十一月八日に、初めての礼拝式が幼稚園の建物を借りて、行われました。一九五五年の夏には、十一人のクリスチャンが祈祷会に集まって、神の御心に従って教会堂を建てることを決定しました。

 それから、貯金を始め、会堂の建築が始められました。その後、出席しておられた或請負師が、実費で教会堂を手いましょうと、申出てくれました。一九五六年七月に建築が始まり、献堂式の予定日であった十一月十一日の直前に、完成しました。この日には、各教会からも代表の方々が出席して下さり、建築資金として六万五千円も献金してくださいました。これは私たちにとって、大きな感謝であり励ましでした。教会発展のために中央資金からお金を借りることができなかったとしたら、また祈りを捧げてくださった沢山の方々の励ましがなかったとしたならば、私たちの計画は、成功しなかったでしょう。実に神は、私たちの中にいて全能のみ手を働かせてくださったのです。」(『聖霊歩み』一九六〇年発行)

このネルソンの言葉にもあるように、最初の礼拝が一九五三年十一月八日、市内東新町二番地にあった豊橋同胞園内保育所の建物を借り受け、臨時集会所として礼拝を始めた。

まさに、それは偶然による神のみ業であった。ネルソンが当時の宣教師の日本語教師(通訳)も兼ねて伝道を助けてくれていた高橋優氏及び岡崎教会の土地取得に直接的に関わった阿部長治氏と三人で適当な教会用地を物色するために市役所を訪れた、一九五三年十月に与えられたものである。そして、それは彼が豊橋伝道に任命されてから約二週間を過ぎた時である。

その時の情景をネルソンは、自らが記した『豊橋開拓伝道日記』(『みつびき―十周年誌記念誌―』豊橋福音ルーテル教会発行、一九六三年)でこのように書き残している。

「十月十八日  先週の水曜日、私達は非常に好運であった。再び市役所を訪れる前に、高橋さん、阿部さんと共に祈った。幸いにして、面会した人は道路に精通していた。(私達は、私の家と、また、将来教会となる土地を調査していた。)辞去する直前に、私は、礼拝を行うことの出来る場所を御存知ですか、とその人に訊ねた。彼は即座に電話をかけて、私達をその友人の所に送った。私達が訪れた人は同胞園園長の井川さんであった。彼は、礼拝のために彼のすべての設備を使うことを許してくださった。神はたしかに、私達の期待を遥かに超えて祈りに応えてくださったのである。最初の礼拝を十一月八日に計画する。」

 一九五三年七月の夏の宣教師会で、岡崎地区への伝道師として採用された浅見君江氏(旧姓高津)は、最初は補完的に豊橋伝道に加わったが、一九五五年十二月末の宣教師会常議員会の決定により、正式に豊橋伝道の伝道師として新たに任命されている。

 その頃の思い出を浅見君江氏日本福音ルーテルみのり教会の宣教五十周年誌『みちびき』(2003)の中で、こう書いている。

 「神戸ルーテル聖書学院を卒業して、岡崎教会で働くことになった私は、豊橋にも教会を建てるという計画にしたがって、かけ持ちの生活が始まった。日曜日、岡崎教会の礼拝が終わると名鉄の電車に飛び乗って豊橋に向った。その先は、同胞園という母子寮である。

 豊橋教会の初代の牧師は、ネルソン先生で、会堂ができるまでの期間、毎日曜日の午後は同胞園で子供たちのために日曜学校を開いて、私はその集会を手伝ったのである。遠い昔の出来事と思える程、時間がたってしまったが、幼い子から大きい子まで一緒になって讃美歌を歌い、聖書の話を聞いていた、その様子が目の前に浮び上がってくるような思いがする。」

 十一月八日、同胞園にて最初の礼拝が行われた。ネルソンの日記には、彼の率直な語り口によって、その礼拝を向けて周到な準備のための興奮した気配が感じられる。

 「十一月八日、最初の礼拝のため、昨日、最後の準備をした。東京よりの聖書は間に合わなかった。間際になって愛知大学印刷所より数冊の古い聖書を拝借した。讃美歌は岡崎教会より二十五冊拝借。午後、椅子、聖壇を整える。聖壇、十字架もまた岡崎教会より拝借した。夕刻、看板を立てる人々が見えた。彼らが適当な場所に看板を立てている時、私は船にマストが立てられた如く、あるいはポールに旗が掲げられた如くに感じた。それは私たちの伝道が始まったことを象徴していた。

 今日豊橋にとって大いなる日である。

 婦人四十名、男子五名の出席を得て、遂に十時十五分礼拝を始めた。後、更に十名ほど見えた。神は私たちの豊橋での出発を祝し給うた。すべての栄光と名誉と賛美とは神にあれ。最初の説教として、マタイ112830について話した。題は『大いなる招き』である。

 かくして今日は終わった。一千の家庭を訪問し、看板を立て、五千枚のビラを新聞に折り込んだが、来た人は僅かである。まことに『招かれる者は多いが、選ばれる者はすくない』である。」(同上)

 ここで、ネルソンが「最初の説教として、マタイ112830について話した。題は『大いなる招き』である。」と記している最初の説教は、彼の日本語教師である高橋優氏が岡崎から来て、通訳をしたものであった。

 それから、約二年間、同胞園を一時的に借用した形での礼拝が行なわれた。それはあくまでも仮礼拝所である。自前の会堂でないことのゆえに、使用上の種々の問題が発生することは当然である。そのために、将来の不安が解消できないこともあり、早急に自らの会堂の建築を実現することが強く求める動きが集う者の中からも出てきた。

 1963年に発行された『みつびき―十周年誌記念誌―』の中に「豊橋福音ルーテル教会々堂建築の経過」が次のような内容で説明している。

 「同胞園々長、井川徳松御夫妻の、理解ある態度に感謝しつつ、集会を続けて来たが、日曜日以外は、同所の借用が困難であり、公共の建物を長く借用する場合には、種々、伝道に不自由を感ずることもあり、又同胞園側も迷惑になることを懼れて、信者は、自分たちの手で自分たちの祈りの場を得たい、そして、そこで、自由に集会を持ち、存分に伝道の好機をつかみたい、と思い立つように至った。

 それは、一九五五年八月中旬、ネルソン牧師が、暑中休暇を得て、家族と共に野尻湖に滞在中のことで、当時の教会員数は、十一名であった。

 その次の日曜日より、祈祷会の度に、どうか神様が、私たちに、教会堂を与えてくださるように、又、その為に私たちのなすべきことを、お示しください、と熱心な祈りが、信者達によって、捧げられた。

 ネルソン師が、九月初め野尻湖半より帰られてから、早速その具体策にとりかかったが、先ず、建築資金を得る為、十月三日から特別献金を始めた。特別献金箱を礼拝の度に会場の出入口に置き、各自自由に無記名で献金をその箱に入れるのである。

 資金どうして得るか、どの様な建物が、どの建築の手によって何時、何処へ建てられるか、だれも知らなかった。只、神が、私たちに必要なものであれば必ず与え給うという信仰あるのみであった。第三者の目から見れば、誰にも無謀と見えたであろう。

 会堂建築資金の目標額をつかむ為、ネルソン牧師の牧師館を建てられ、東京の自宅へ引揚げられた望月武松氏に問合せた所、最低百万円との回答を得た。

 そこで、百万円を目標として、信者達は熱心に献金を続けた。私たちが、自分の手で会堂建築の希望をもって、献金を始めたことが伝わると、内外各方面から、思いもかけない強い援助の手が、差し伸べられた。

 先ず、ネルソン牧師夫妻の本国である米国に居られる親族、友人、日曜学校生徒、又佐久間ダム建設の為、来日されていたバーカー氏等から多額の献金が寄せられ、或る宣教師からも、信者の友人からも、又最近は、名古屋、静岡等の教会員からも、続々と、尊い献金が送られてきた。」

 一九五五年の夏、豊橋教会に連なっていた信徒の数は僅かに十一名であったとしても、彼らは自らの会堂を自分たちの資金で実現していくために特別献金による「建築積立」を始めた。このために捧げられた当時の会員一人当たりの平均献金は、八千円から九千円に及んだと言われる。それから一年、ネルソン師の知人で、当時、佐久間ダム工事(1956年完成)のために土木工学の立場から特別にアメリカから招聘されていたバーカー氏の特別寄附などで、二十万円の資金を積み立てたが、目標の建築資金には届かなかった。そのために、建築計画の延期もやむを得ない情勢にあったが、一九五五年七月に、福音ルーテル教会日本伝道部が日本の教会の自治、自給、自伝を早急に達成するために設けた『自主教会方策委員会』(Indigenous Church Policy Committee)から百万円の融資が可能となり、一九五六年六月に、返済期間は十年間、ただし無利息という好条件で借入金が充当されて、建築資金が整った。土地の方は、アメリカ教会の会員の指定寄附により、すでに船原町に七三坪が用意されていた。

 当初は建築設計を基本的に近江兄弟社のヴォーリス設計事務所に依頼する予定であったが、予算の問題もあり、当時の教会関係者であった業者に依頼し、一九五六年八月に定礎式を行い、十一月十一日に念願の献堂式を迎えた。