月報付録 2007年10月7日発行   

  「東海教区・静岡教会前史」
   ELC宣教師の軌跡(46)
  「焼津・沼津・富士伝道

       
 

今回は焼津伝道に触れる。前にも触れたことであるが、一九五一年十一月の、福音ルーテル教会日本伝道部(ELC)による第二回宣教師会総会で第二次宣教拠点の候補地として新たなる宣教拠点として選ばれた地区は、半田、岡崎、豊橋、焼津、富士地方であった。

焼津への宣教師人事は A・クヌートソンと婦人宣教師のC・マイヤワールドと定められた。

焼津教会の最初の宣教師となったA・クヌートソンは、一九五一年夏に、ルーテル自由教会(LFC)のボードから0・バーグと共に派遣された。半田伝道ですでに触れたように、0・バーグは半田への最初の宣教師である。

ルーテル自由教会(LFC)は、ノルウェー人とデンマーク人を中心にし、一八九七年に創設されたシノッドであり、当初は教会数一二五教会、会員六千二百五十という弱小シノッドである。一九五〇年六月の定期総会で、ルーテル自由教会(LFC)は、ELCのボードと協力・協同による日本伝道への参入を決議したのである。

その前に数回のボード間の協議を経て、一九五〇年二月、両ボードによる共同委員会が開かれ、次のような内容が話し合われている。議事録をそのまま引用しておく。

「場所 ラウング(Lounge)

 出席者

ELC シルダール(総幹事) ボルゲス

      ハンソン

LBM  コンスンテリー(総幹事) ボスタルデン

   ホーランド  モルガン

 シルダールは現在の伝道状況についての報告をした。伝道拠点は検討中であるが、東京で一つの伝道が開始しており、その場所については更なる検討が加えられている。それぞれにかかる伝道費用には違いがあるが、まだ完全な予算化はされていない。宣教師家族と婦人宣教師一人が派遣されている。それに会堂建設のために約一万五千ドルが必要となる。これらのことは報告であり、決議事項ではない。

 次に共同委員会は両ボードの方針に従い、基本的な方針について協議の時を持った。

@        ELCとルーテル自由教会は日本での一つの伝道領域を共有する。

a.            ミッションの名称は「ELCとルーテル自由教会の日本伝道」とする。

b.            日本での法人に関しては「ルーテル自由教会」またはそのボードである「ルーテル・ミッションボード」を用い、財産の所有に関しては一つとする。

A        ミッションに関する会議報告及びその他の事項について、共同ボードは次のように定める。

a.            年2回、共同ボードは会議を開催し、それを10月と2月とし、その間の事柄については合意をえることとする。

b.            共同委員会は必要に応じて、その間、開くこことし、共同ボードの議題を作成する。

B        宣教師の候補者の試験と招聘は両ボードの共同委員会で最終的承認を得るものとする。

a.            共同伝道に仕える宣教師のすべては両ボードより給与と手当てを受け取る。

b.            それぞれのミッションが宣教師の給与、旅費、手当の支払いに責任を負うこととする。

c.             それぞれのミッションは宣教師の休暇及び休暇中の代理業務、医療、年金等の条件に関しては別途に定める。

C        資金と現在の予算に関する負担は両ボードの宣教師の割合に添って分担する。 」

一九五二年十月に焼津伝道のために着任したA・クヌートソン宣教師は、2002年に発行された、焼津教会五十周年記念誌『まきば』(2002年発行)で、次のような思い出の言葉が綴られている。

 「ルーテルの証しが焼津で始まってから、この十月で五十年になるということの意味を理解することは難しいことです。一九五二年の十月の初めに、私たちの家族は焼津の新築された家に引越しました。

 この最初の宣教師は、若くて、神学校を卒業したばかりで、日本語が話せず、日本の文化についてもほとんど知識がありませんでした。たくさんの馬鹿馬鹿しい間違いをしましたが、主の御手はこのしもべの上にありました。人々がやって来て(多くが若者たちでした)福音を受け入れ、洗礼を受けました。みなさんのうちの何人かはこの最初の年月に洗礼を受けて、そんな昔に神様に告白した信仰を今もなお持ち続けている方々です。悲しいことに信仰を離れたかたもありますが、最後まで信仰を持ってこの世を去られた方々もあります。

 私たち夫婦は日本で三十三年間福音の宣教に奉仕するという光栄にあずかりました。私たちは、この歳月を振り返る時、多くの友情が築かれたことへの感謝と、焼津にルーテル教会を誕生させるという私たちに与えられた恵みへの感謝に満たされています。それは非常に幸せな年月であり、その最良の年のうちの数年はみなさんを知り愛するようになった年月なのです。

 今年マーガレッタと私は八十歳になります。私たちの心は多くの祝福、とりわけ焼津に福音を伝えることができるという祝福で満たされた、新しい人生を与えてくださった神に感謝でいっぱいです。」

 秋の十月に焼津に着任した、若き宣教師クヌートソンは二月二十日、静岡で開催された宣教師会常議員会の決議により、会堂の敷地を二百五十坪相当を取得する権限を委ねられていた。

 土地交渉の経緯は資料が残されていないので不明であるが、一九五三年、百五十坪の現在の教会用地を975,000($2,713.89)で購入する。

 翌年の四月二五日、その敷地にヴォーリス設計事務所の意匠による、45.5坪の床面積を有する会堂が完成した。

 つぎに、沼津での伝道の展開をみてみよう。

沼津地域に最初の宣教師として派遣されたのは、一九五一年八月二十日、横浜に到着した.C・アーモット夫妻である。

彼が沼津地方への任命を受けたのは、正確には一九五一年十一月の宣教師総会であった。ただし、彼は来日した翌月の九月十日より翌年の七月まで、日本語習得たのめに東京の板橋区にあった宣教師館から渋谷にあった東京語学学校、通称「長沼スクール」に通っていた。

一九五二年二月、宣教師会常議員会はアーモットに沼津市役所の近くに宣教会館及び教会の敷地を探させる指示を与えられた。そこで、彼は東海道線に乗って、しばしば沼津の地を訪れた。

その時の沼津の印象をアーモットは後にこう語っている。

「沼津は、東京から南に約八〇マイルの所にある美しい港です。私たちの伝道区は住宅向きの良い地方に位置しており、たとえ、この町に小さな教会がたくさんあっても、もっと教会が必要なことは明らかです。」(「ルーテル沼津教会宣教三十五周年記念誌」)

一九五二年四月二五日の宣教師会常議員会の議事録には、「アーモットに369.75坪の宣教師館の土地取得交渉を委ねる。坪単価は4,000円」と記録されている。

この宣教師館の土地の登記は、福音ルーテル教会日本伝道部の法人登記が重なったために、約二ヵ月後の七月二日、土地登記が完了する。

登記前の月、六月二十日、宣教師会常議員会で宣教師館の建築請負契約書が承認される。業者はいつもの通り、静岡市に本社がある勝呂組であり、見積金額は2,483,815円であった。

アーモット一家が沼津に移り住んだのは、一九五二年六月に入ってである。

そして、その年の十一月六日、宣教師館が完成し、三十日、アドベントの第一主日礼拝が最初の礼拝として持たれた。

出席者は二十九名である。同時に、中学生のための日曜学校も開始し、最初の時は約四十名、次の日曜日に九人増え、合計五十人となった。

その最初の礼拝、会堂の土地取得、献堂式について、アーモットは簡潔な直截な言葉で述べている。

「私たちは、一九五二年のアドベントの最初の礼拝の日曜日のことをどれほど鮮明に覚えているでしょう。この時、最初の礼拝をもったからです。この後の二年間、集会は全て私たちの家でもったとおもいます。私たちはある他の土地を購入し、教会堂を建てることができました。しかし、そうするまでに二年間かかりました。私は新しい教会の献堂式のことを覚えています。当時ルーテル神学校の校長であった岸先生に説教をしていただきました。」(「ルーテル沼津教会宣教三十五周年記念誌」)

一九五三年から一九五四年の前半にかけて、アーモットは教会堂の敷地を探すのに、思いのほか多くの時を費やしたが、宣教師館から徒歩で約五分の所の角地に適地を確保した。

そこは沼津駅より約十五分、狩野川のほとりに近く、香貫山を背にした場所である。

一九五四年九月、宣教師館を建てたのと同じ業者である勝呂組が会堂建築工事を開始し、二ヶ月後の十一月二十八日、定礎式が行われた。

そして、十二月二十六日朝、新会堂の献堂式が挙行された。司式は宣教師会長のホーマスタッド師、説教は日本ルーテル神学校校長の岸千年である。このための礼拝に聖歌隊が結成され、二十人の合唱が礼拝の中で行われた。

婦人宣教師としてアーモットと共に沼津での最初の宣教の業を担ったA .アルネソン(1952年来日、1952.9から1955.8まで沼津で宣教)は、献堂の喜びを次のような言葉で残している。

「沼津でのこの最初の一年間、たくさんの変化がありました。その最も大きな変化は、今完成しようとしている美しいグレーの教会堂です。クリスマスの時までに私たちの教会に移れることはなんて楽しいことでしょう。たくさんの祈りと神様が応えて下さったのです。教会ができてことにより、沼津の地での私たちの仕事はやりやすくなるでしょう。」(「ルーテル沼津教会宣教三十五周年記念誌」)

次に沼津と隣接地であり、広々と広がる伊豆半島及び駿河湾を南に、さらに雄大な富士山を北に眺め、西には富士川が流れる富士市での伝道の開始に触れる。

一九五三年一月に、加島町の宣教師館にN・オルソンが入居し、そこから富士伝道の端緒が開かれる。ここには一九五四年からは神学生であった岸井敏が週末毎に東京から汽車でやって来て教会学校及び大人の集会も手伝った。

翌年の一九五五年に入ると、新卒の河島与施夫が伝道師として派遣された。と同時に、富士に会堂建築が着工され、五月一日から未完成の新会堂で集会が始められたが、七月十二日、晴れの献堂式を迎えた。

富士教会員の清水勅彦氏は、会堂についての切実な思い出をこう語っている。

「最初の会堂は加島町十番地(現在地より東約20メートル離れた所)にあった。すべてアメリカの兄弟姉妹からのギフトとして与えられた。敷地約二百坪、建坪四十坪で南北に長い木造瓦葺きで、東側に藤棚のテラスがあり広い庭に面していた。後にこの庭の東側に牧師館を建てた。周囲は本州製紙が開発したというポプラが数本あり、会堂の西側にはドクダミが群生していた。トイレ(くみ取り式)は西北の隅に別棟として作られていた。南側玄関から入るとスリッパが並び靴を脱いで縦長の礼拝堂に入る。玄関の右側に小さな部屋があって、CS、役員会をしていた。左側は準備室で、謄写版印刷の道具やハシゴなどもあった。その北側は集会室で祝会、ベテルの勉強などに使っていた。その北側にお勝手があり食器棚や流しがあり、トイレに続いていた。」(「富士教会宣教四十年記念証し文集」、1994)