ELC(福音ルーテル教会)の日本伝道

 

 1948年の時点でアメリカに17のルーテル教会が存在した。最大のルーテル教会は、ドイツ系を中心としたULCA(北米一致ルーテル教会)であり、会員数は191万9,822人であった。次に、ミズリー・シノッドは生粋のドイツ人の教会で、第二番目の規模を誇り、会員は161万7,692人を数えていた。そして、ELC(福音ルーテル教会)はノルウェー人系の教会で、第三番目であるが、会員数は77万2,863人であった。さらに、1950年より、山陽地域に伝道を展開することになるオーガスタナ・シノッド(アメリカ・スウェーデン系)は、43万2,329人の会員を有していた。

 ELCから最初に第一陣として、1949年、日本に赴任した宣教師(婦人宣教師を含む)は、その前に短期間であっても、中国伝道に身を投じていたのであった。

 ELCの中国伝道の歴史について簡単な説明をするとこのようになる。

 1890年に「ノルウェー福音ルーテル中国伝道協会」(The Norwegian Evangelical Lutheran China  Mission Society )がD・ネルソン(D・ Nelson) 、H・N・ローニング(Rev.HNRonning)、その姉妹セア・ローリング(Miss Thea  Ronning)を派遣したことにより、アメリカのノルウェー人による中国伝道、つまりELCの伝道が開始された。そして、2年後の1892年には、ELCの合同前の、シノッドの一つであったハウゲ・シノッド(Hauge Synod)が湖北省(Hubei)と洛陽(Luoyan)を伝道地の拠点と定め、そこから本格的伝道を展開していった。さらに、三つのノルウェー・ミッシヨンが合同を果した後の、1920年頃には、中国伝道に派遣されたELCの宣教師は125名を数えていた。ことに、医療伝道は盛んで、山東省の済南(Jinan)には医療専門学校が設立されていた(Luthtan World Missions,Foreign Missions of  the Lutheran Church in America.1954 )。付け加えておくと、ハウゲ・シノッドが中国伝道を開始した1890年代には、すでに多くの欧米のプロテスタント宣教団体から宣教師が送りこまれ、その総数は男子が約600人、その妻約400人、独身女性約320人となっていた。その他のULCA(1898年)及びオーガスタナ・シノッド(1905年)もほぼ同じ時期に中国伝道を開始しているからして、アメリカ・ルーテル教会は他のプロテスタント宣教団体に比べて後発的宣教団体そのものであった。辛亥革命(1911年)以後、かつての宣教師の活動を痛めつけるような大がかりな激しい迫害はなくなり、キリスト教が好意的に社会の中で、ことに知的階層に積極的に受けいれられていった。だが、日中戦争の全面的展開とともに独自の持久戦を推進した中国共産党の躍進は1937年以降、目覚しいものであった。毛沢東の思想を党内に徹底し、抗日戦争初期には数万人であった党員は、第二次大戦終結前の、1945年7月には121万人に増大した。さらに、中国共産党は大戦後も共産党撃滅をめざす蒋介石の国民党と対決し、アメリカの調停工作にもかかわらず、軍事的に優勢な国民党軍を圧倒し、1949年12月、その残存部隊を台湾に追った。共産党による支配の確立は、キリスト教にまったく新しい事態をもたらした。とりわけ、カトリック教会の宣教団は、帝国主義による植民地政策の象徴と見なされ、多数の神父が投獄され、あるいは反逆罪により国外追放を受けた。プロテスタントは、カトリックほどのひどい弾圧は受けなかったにしても、1949年になると、ほとんどすべてのプロテスタント宣教団体はそれぞれの伝道拠点での活動を厳しく制限され、伝道の将来は望ましくない方向に確定しつつあった。

ELCの日本伝道は中国伝道からの「退場」よる新たなる伝道地への活路を求めたところから始まったものである。ホード総幹事シルダルが1949年4月から約一ヶ月近く、日本視察をした後、6月23日、ミネアポリスのホード会議で日本伝道参入を最終的に決定した。

最初の宣教師オラフ・ハンセン(Rev.Olaf  Hansen)は空路の旅を経て、1949年11月5日、東京・羽田飛行場に到着し、日本の土を踏んだ。その年の暮れ近くと推定されるが、ハンセンは文京区丸山町21番地(現・千石3丁目19番10号)に第一陣の宣教師のための共同住宅に相応しい木造の物件を取得した。それは個人の医師が経営していた元医院である。その医師は、老齢のために医院を廃業し、近くに移り住んでいた。部屋数は多く、入口が東と北の二ヶ所にあり、外装はタイル張りの二階家の洋館風であった。